***未知との遭遇(古い?)***

ふぅー。今日は会社はOFFでしたが、朝から大事な用事があったので隣の県まで出かけていました。用事が無事終わり、帰りに旧友と会って色々な話で盛り上がりました。その旧友は職場の元先輩なのですが、3ヶ月ぶりに会い、元気そうでついつい長くなってしまいました。私は一度でもお世話になった方には必ず恩を忘れずにしたいと思っています。会社を退職され、全く同僚から連絡も無くなっていたので嬉しかったと言われ、会いに行って良かったと思いました。                     話は変わるのですが(あ、改行できるのですね、知りませんでした)前回の続きに入りたいと思います。
何が兄貴の友達の部屋にあったかというと、外人がオートバイでレースをしている雑誌があったのです。
今の感覚で逆算し想像すると、おそらく82年か83年くらいのライダースクラブライディングスポーツではないかと思います。イタリアかスペインの眩しい日差しを浴びたマシンがそこに写っていました。
当時はスーパーカーブームなどもあり、F1では6輪のタイレルなんかがブレイクしていました。私はJPSカラーのロータスやランチャストラトスなどがお気に入りでした。
まさかバイクにF1みたいな世界があるとは思ってもいなかったので、衝撃的でした。
また、白いカウルのマシンに色々な見た事のないスポンサーステッカーが貼られていて、何度もその写真を見たくてその友達の家に行っていました。
それからしばらく月日が経ち、兄貴が毎月購入するオートバイという雑誌を見るのが何よりも大すきでした。私の記憶にある衝撃的なバイクのデビューは、RZ、VT、MVX、Γ、KR、CBX、刀、CBR、RZV、NS400R、RG500Γ、ホンダの500ターボくらいですかね、、
今から考えると当時は毎年想像を超えたバイクがリリースされ、毎月雑誌を見るのが楽しみでした
私には兄が2人おり、一番上の兄が工業高校の3年でちょい悪使用のカワサキZ400FX、二番目の兄がちょっと悪い普通科の1年で白い規制前のMBXに乗っていました。もうすごくカッコ良くて自慢でした。私は中学1年で、よく中学校に朝後ろに乗せていってもらっていました♪♪
今思うとジェットヘルでした(当然シールド無し、兄貴はマスクかマフラー着用)
二人とも学校が終わってアルバイトして全部自分で買っており、また家に少しお金を入れていました。
そんな二人の後姿を見て、自分も高校に入ったらアルバイトして、免許取って全部自分で買おうと思っていました。(ちなみに二人の学校は一応免許禁止でした、、のんびりした時代でした)
私も晴れて高校生になり、まずは原付を一発で取り、2番目の兄貴のお下がりのスーパータクト(黒、ハリケーンのチャンバー付)を借り、毎日毎日磨いて近所をうろうろうろうろしていました。
もうバイクって最高!!という毎日でした
それから中型免許を取り(当時7万円弱でした)、また2番目の兄貴のお下がりの初期型RZ250(黒3本ライン)を譲ってもらい、バイトに明け暮れていました
当時はオートバイ誌に俺たちのサーキットというハングオンした写真が毎月載っており、「俺もひざを擦りたい!!」とスクーターのころから練習していましたが、まったくダメでした
RZでは毎日毎日近くの貯水池の峠に通い、びびりながら「攻めて」いました
実家の近く(といっても結構離れているのですが)に峠が4つほどあり、実名を挙げますが
河内貯水池、畑貯水池、増渕ダム、平尾台と走る所が結構ありました
すぐに増渕ダムはバイク禁止になったのですが、河内では金曜土曜の夕方になると何十台、何十人という人数が集まって来て走っていました
当時2人速い方がいて、「奥っくん」と「イエローバルブの刀に乗った大学生」が速かったです
危ないので全くついていけませんでした(当時は本気でみんな飛ばしていましたよね)
この4つのコースでヨシムラのF1チャンピオンの大島行弥選手が走りこんだと伝説になっていました
所属は某インター入り口の横にあるバイク屋さんでした
「ここで練習すれば速くなれるんだ」という今思えば宗教とでもいう様な雰囲気がありました
でもここの峠の上位の方達は西日本サーキットでポンと上位を走っていました
ほぼ毎日雨が降ろうと雪が降ろうと通っていて、速くは無いのだけどRZにも慣れ、楽しく走っていました。そうそう、この頃初めてツナギを購入しました
バイト代を貯め、ラビーンというメーカーの白ベースに赤のラインが入った2ピースでした
買った後に小さい事に気づき、仕方なく窮屈に着ていました(当時で安売り時で5万しました)
もうツナギが手に入れば気分はレーサーそのものです
アルバイト先にも着て行っていました(今では考えられませんが、当時はけっこうツナギの人がいました)
ここでアクシデント発生、ブラインドコーナーを走っていると対向から路線バスが来ました
それにビビリ、ブレーキをかけ、バランスを崩し、転倒してしまいました
ステップが足の内側にささり、軽い手術をしました(ほんの数針ですが)
その日以降母親が心配し、バイクに乗らない様にと言い出しました
正直峠は危ないと感じていたので、当時大ブレイクしていたスクーターレースに出場しようと
RZを売り、初期型のJOG(青70キロメーター?)を中古で購入しました
これでもう更に気分はレーサーになり、ツナギを着て乗っていました(今では考えられませんが)
当時は自動車学校などでもレースをやっており、遅いなりに大満足で楽しんでいました
その後中古のYSRを購入し、平尾台に出来たコースと青山カートウェイで練習、レースに出ていました
皆さんは知らないでしょうが、当時青山カートウェイには2人天才(私個人の判断ですが)がいて、
山本誠士郎君と坂本始君(ごめんなさいはっきり覚えていません知っている方がいれば教えて下さい)
の練習時からのバトルは思わず見入ってしまいました
当時中学生だったと思います。誠士郎君は青木ノブと組んでまるち4耐かなにかで優勝していました
坂本君も熊本の中九州で勝ちまくっていました
何年か後に誠士郎君は南コースでキタコから125に出て優勝していました
しかし突然姿を見なくなってレース界から二人とも引退?していました
お二人の消息をしっている方がいらしたら教えて下さい
あの誠士郎君のスクーターでミッション付を抜いて行く速さは本当に日本でもトップレベルなんだと思いました
当時はモトちゃんぷを毎月楽しみに購入していました
青木3兄弟、ノリック、中野信也、大治郎、原田兄弟、デイトナの芳賀兄弟、オクムラの加藤昌義、KRSの名前忘れました、その他全日本、世界で活躍する事になる金の卵がたくさんいました
長くなりましたが、ここまでが高校生の頃の記憶です
次回は高校を出てからいよいよロードレースデビューまでの道のりを回想したいと思います