***サブカルチャー***

先日麻生外務大臣サブカルチャーについてお話している映像がテレビに映っていました。
私は福岡出身ですので、いつの事かはハッキリ覚えていませんが「麻生太郎」という選挙の告知版を見て漠然と麻生セメントの麻生なのかな?と思った記憶があります
(特に応援する政党はないのですが、、)
よく読む雑誌がジャンプ、マガジン、チャンピオン、モーニング、、すごいですね
「漫画は時代を読む事ができる」とは同意できる部分もあります
高校生当時、マガジンに載っていた「バリバリ伝説」と「あいつとララバイ」は特に好きでした
バリ伝の方は4耐の部分のビデオを借りて見て、ゴールした瞬間思わず涙が出てきた記憶があります
何年か経ってまた見た時に、また同じシーンで涙が出てきました、、名作ですね
音楽は「ボウイ」「レベッカ」「プリンセスプリンセス」「チェッカーズ」等をよく聞いていました
「THE MODS」も小学生くらいから好きでしたね(これは一番上の兄の影響です)
当時は携帯電話はおろか、ポケベルなんかも一般的ではありませんでした
しかし、学校ではパソコンの授業があり、BASICという文字を入力しまくって最終的に図を動かす
みたいな事をやっていました(情報処理という授業でした)
ちんぷんかんぷんでした
はっきり覚えていませんが86年から88年の間に悪友がパソコンを買いました
「ゲームをする為」に買ったそうですが非常に高かった事を覚えています
たしかNECだったと思います(当時の機種を特定出来る方がいれば教えて下さい)
そんなこんなで毎日楽しい高校生活も終わりをつげ、就職する事になります
その頃になるとバイクブームも最高潮に達し、シュワンツはガードナーに勝ち、スタンディングのガッツポーズがはやりました
8耐も85年にケニーと平選手が組み30分前にグランドスタンド前で停止した伝説のドラマから
うなぎ昇りに観客が増え続け、トイレに入るのに30分以上の行列、サーキット内の通路という通路は
人人人で埋め尽くされていました、、、
もう当時はサーキットの自販機は全て完売、何もかも飲み物が手に入らない、、、とすごい状態でした
89年から鈴鹿に移り住み、生活していましたが、8耐とF1の時は町中身動きが取れず困った状態に
なっていました
ホンダ鈴鹿工場もシビックインテグラCR-X、ビート、、ホンダ車は販売好調で忙しかったです
当時はフリーターで2つ3つ仕事を掛け持ちして働いていたのですが、全く苦にならず楽しく生活して
いました。(全部レースに注ぎ込んでいましたので食費は1万円でした、、)
栄養失調になるかと本気で思っていました
好きなメニューが3袋200円位の粉ソースの焼きそば1袋に卵1個かき混ぜて、塩コショウで味付けする
のがお気に入りでした(もちろん3食同じメニューです)
給料が出ると鈴鹿にある「新海竜」という中華料理のお店に悪友と行き、「ヒレカツうま煮」を
食べるのと、鈴鹿地方名物?の豚肉とキャベツに辛みそ?とうどんを混ぜ、鉄板の上で焼く
リーズナブルな食べ物が人気でそこにも行っていました
あとはサーキットから白子方面に行くサーキット道路の途中にお好み焼き屋さんがあり、そこに
かわいいアルバイトの子がいて、人気でした
(当時125の島選手がコラムでここの女の子は鈴鹿で一番かわいいみたいな事を書いていました)
当時はとにかく走行予約が取れなく、月1回走行しか予約できない決まりになっており、
「こんなので速く走れる訳ないだろー」と思っていました
なのでみんな中山サーキットや美祢サーキット、富士スピードウェイまで行って走っていました
つわものはノービス(国内B級)なのに筑波、那須、間瀬、菅生まで遠征していました
私はとにかく仕事を増やし、JレーシングやHRCの壮行会などに片っ端から申し込んで走っていましたが
恐ろしいほど私が走る日が雨雨雨、、、、おいおい何で必ず雨になるんだー!!金返せーって心の中で
思っていました
最初は安物のカッパを着て走っていましたが、安物は走行途中で破れまくり、意味が無いので
途中から雨でもそのままツナギで走っていました
これが濡れてくると重いんです、雨を吸い込むから
雨ばかり走っていると慣れる物で、すいすい走れる様になりました
雨のデータも結構たまり(晴れのデータは南コースしかないんですけど、、)自信がつき、ついに
全日本併催のフルコースのレースにエントリーしました
その前にHRCの壮行会があり、その日も雨、、、、、
自分なりにセッティングも出ており(思い込みですが)好調好調と走っていました
ノービスで上位に並ぶ人は覚えていましたので、目印に走っていて、あら、追いつくよ、あら
抜いてしまった!!いい感じ!!で走っているとどんどん抜いて行けます
心の中で「今まで雨ばかりでよかったー」と思って走っていました
250、F1とかにストレートで抜かれてもS字で抜き返しグングンタイムも上がり、「これ今回予選通過
間違いないな、ついに俺の時代が来たー」とハイペースで走っていると、デグナー2個目で
すってんコロリンと行ってしましました、、、
調子に乗りすぎたーしまったーと後悔先に立たず、、マシンは壊れてしまいそのレースは走れません
でした(カウル、ステップ、ハンドルが壊れたと思います)
全く個人でやっていたので支払いは現金なので壊れるとしばらく走れなくなってしまうのです
カウル屋さんで材料だけ売ってもらい、「これホントに直すの?」となったバラバラなカウルを
きれい?に復元していました。パテできれいにし、色を塗りなおすと、意外と見れる様になるもの
です。転んだ時も破片は必ず回収していました
ステップのプレートはショップの工場でボール版などを貸してもらって、板から作っていました
やろうと思えばお金を掛けずに修理できるものです
クランク交換とかも部屋でカセットコンロを使ってやっていました
レーサーなので走行毎にピストンのあたりやヘッドの焼けを確認するのですが、バイトが次から次に
予定が入っているので、作業は速くなっていました
ピストン交換し、エンジン掛けるまでに30分掛からない様になっていました
話が長くなりましたが、そんなこんなで奮闘していましたが、結果は全く出ず、埋もれていました
今考えると大きなチームで正しいアドバイスを受けるのがいかに大切かと思いますが、
全くど素人が一人でやっていたのでまさに袋小路状態でした
次回はレース活動も終盤に差し掛かり、モヤモヤしてきた頃の事を回想したいと思います