***クールデビル***

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SP忠男出身のライダーといえば、今活躍中の「王子」(ハンカチではないですよ)中野選手と
125マラグーティの小山選手が有名ですが、今から10年以上前、さらに輝いていた選手がいました

ノービス時代は125で活躍し、ジュニア時代は全戦優勝、最終戦は250で参戦し、見事に乗りこなし、
国際A級1年目からワークス入り、ネスカフェカラーでTZ250Mを駆って岡田選手と争っていました

マシンがフルバンクするのは一瞬だけで、常にマシンが起きてフル加速の体制に入っている独特の
ライディングは、他のトップライダーと明らかに違うラインでレコードを塗りかえていました

正直全日本時代はこれほどの成績を残すと思っていませんでした
当時の全日本はスター選手が沢山いて、ワークスマシン、ワークスのキットパーツをつけたマシンが
250CCクラスだけで12~13台位いたのではないでしょうか

そんな中、口数も少なく、優勝は岡田選手がほとんど勝ち取っていて、常に2番手、というイメージ
がありました

彼が本当に力を発揮するのは世界に出てからでした
イタリアの電話会社のスポーンサードを得て、開幕戦オーストラリアで、100%チャンピオン候補の
Jコシンスキー選手のRGV250Γを最終ラップの最終コーナーからゴールラインまででスリップを使い
見事に優勝でデビューを飾りました

本当にこのレースは驚きであり、関係者も「良く頑張った」程度の期待でした
しかし、シーズンが進むにつれ、それはフロックでは無く、実力でトップ争いをしていると
誰もが認め、もしかしたらチャンピオンを取るんじゃないかとささやかれて来ました

舞台はスペインのヘレスサーキット、好調なままサーキット入りし、順調にセットアップする
中で、あるアクシデントが起こりました

予選中にKEIIYUのスポーンサードを得て、ワークスRGV250Γで250CCに参戦していた若井選手が
イタリアの選手が連れてきていた関係者とピットロードで衝突してしまったのです

直ぐに病院に運ばれましたが、高速コーナーでもなし、大事には至らないだろうとみんな思って
いましたが、状況は一変し、帰らぬ人となってしまいました

坂田選手、上田選手、原田選手と言葉にならない状態になり、レースをキャンセルする事も考え
ましたが、力を振り絞り出走しました

125CCでは、それまでどうしても勝てなかった坂田選手が、明らかにブレーキポイント、ラインと
動揺しているかの様な部分もありましたが、頑張って初優勝しました
250CCでも、原田選手が力を振り絞り優勝しました

その後原田選手は表彰式をキャンセルし、モーターホームへ一人戻って行きました、、
悲しかったと思います
テレビで見ていて涙が出ました、、痛いほど今何を考えているのか分かりました、、

終戦NSR250に乗るカピロッシ選手がポイントをリードして迎えましたが、精神的には明らかに
原田選手が落ち着いており、カピロッシ選手は動揺していました

レース終盤、カピロッシ選手がミスを犯しその横を原田選手が抜いていった瞬間、アナウンサーも
絶叫し、「行け行け、頑張れ!!」と私も画面に向かい応援していました

最終ラップ、最終コーナー、トップで戻ってきたのはゼッケン31、フル参戦1年目のニューカマー
原田哲也選手!!
見事参戦1年目でチャンピオンを勝ち取りました!!

その後アプリリアのワークスライダーとして開発、参戦と続け、類まれな速さを発揮してきました

衝撃的なホンダへの移籍、NSR500での参戦では、時代の狭間、MOTO GPとの混走という状況で
リザルトは残りませんでしたが、輝いていました

プライベートではモナコに住み、フェラーリに乗り海外のCMにも多く起用され、ヨーロッパでは
絶大な人気を誇った「アラーダ」選手は、その後の日本人選手参戦の大きな目標になっていました

速く走れば日本人でも富と名誉を勝ち取れる、いい形を残してくれました

今原田選手は何をされているのか分かりませんが、日本のレース発展の為に再びサーキットに
戻ってきてくれる事を期待しています

ヘルメットの後ろに書かれている「デビル」マークはヤマハの先輩ライダー、私が当時一番好きだった
町井邦男選手から頂いたものです
画像は開幕戦、ゴールラインでコシンスキー選手を抜いて初優勝する瞬間です
下の画像はマシンサイドに「レーシング」と日本語で書かれているレアバージョンのタイプです