***MINEサーキット***

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私が初めてサーキットに行ったのは、確か高校2年生の時でした

バイク屋に入り浸っていた当時、先輩がFZR400でSPレースに出る!!という事で、軽トラに乗せ、

練習走行にお付き合いしました

もう、凄くワクワクして、楽しみでしょうがなかったです!!

まさに気分はGPメカニック?でした

当時MINEサーキットはまだ「西日本サーキット」と呼ばれており、施設も古く、左周りのサーキット

でした

当時全日本がまだ行われておらず、地方選手権のみ開催されていました

88年から全日本が開催されるという事で、非常に楽しみにしていました

ちっちゃなグランドスタンド、最終コーナーはエスケープゾーン無し、コースはパッチが多く、

まるでヨーロッパのサーキットの様でした

しかし、九州、中国、関西のレースに関わる人間に取って大切なサーキットで、和気あいあいと

運営されていました

88年全日本250ccクラスで本間選手が優勝、F3クラスで大島行弥選手が優勝、125ccクラスでは

山崎選手が優勝しました

89年は見に行けませんでしたが、90年はお手伝いメカニックで全日本250ccクラスを転戦していました

ので、参加者として訪れました

125ccでは全日本ビギナーの無名選手、上田昇選手が初優勝、当時1年目の選手が優勝するなんて

無かったので、雑誌に大きく取り上げられた記憶があります

パドックでも「上田選手って特別昇格?誰?」という話題で持ちきりでした

その時の同じチームの125ccのメカニックが上田選手と仲が良くて、良く知っていたので、

「上田選手は今年行くよ!!」みたいな事を言っていました

確か当時「GPマンション」(6畳一間の風呂無し1万円のアパート)がオーバーレーシングの裏にあり

上田選手とメカの人が住んでいました

とにかく速く走る事だけに集中されていた、とお聞きした記憶があります

私がお手伝いしていたライダーは6位くらいだったと思います

(当時ワークスマシン全盛期で13台位ワークス関係がいたので、6位は凄い事でした)

その後,コースも改修され、右回りに変わり、路面もきれいになり、500ccも開催された事があります

さすがに最終コーナーを全開で立ち上がって来る500ccは迫力があり、ピットに向かって膨らんでくる

ので、雨の走行はサインボードを出している横まで膨らんで来るので、ライダー、関係者共に

「危険すぎる、、」と言っていました

91年、92年当時は土日はパドック、上の駐車場共にノービス、ジュニア(国内B級、A級)のライダーで

溢れかえり、トランポも停めれない状態が続き、予選落ちが多数でていた状態でした

練習走行も30分1枠に40台くらい走っていた記憶があります

筑波、鈴鹿に比べれば、それでも4、5本は一日で走れていました

それから年が過ぎるにつれて、1台減り、5台減り、気が付けばグリッドにマシンが10台並ばなくなり

混走、レース不成立になって来ていました、、

土日の練習走行も「あれ?今日、日曜じゃなかったっけ?」というほど少なくなり、平日はもちろん

貸切走行状態で、素人ながらにも「サーキットこのままでは経営が続かないな、、」と思っていました

そして、ついに売却の話が持ち上がり、マツダに売却、テストコースとなり、九州、中国地方のレース

のメッカは長い歴史に幕を下ろしました、、

時期がずれていれば、もしかしたらカワサキオートポリスでは無く、MINEサーキットを購入したかも

知れません、、それであれば一般開放してくれていたと思います

現在、マツダ関係者以外は立ち入り禁止で敷地内には入れなくなっています

マツダも上層部はアメリカ人が多く入ってきて、大変だとお聞きします(フォード資本)

何とか土日の一般開放をして貰えないでしょうか!!

山口からだと、2県離れた「岡山国際」か「SPA直入」、3県離れた「オートポリス」が近いサーキット

になってしまいました

MINEであれば1時間で行けていたのに、、、ショックです

MINEの2輪、4輪のBIGレースをいつも楽しみにしていました

旧コースの雰囲気的は、西仙台ハイランドに似ているサーキットでした(暗い雰囲気が、、)

新コースは現代的でSUGO?の様な明るい開放的な雰囲気でした

懐かしい、MINEの走行映像を見つけましたので、当時走られていた方は懐かしんで下さい(4輪ですが)

MINE走行映像⇒http://www.youtube.com/watch?v=p2OyXatT0O8

個人的にはそれ以来マツダが嫌いです、、